25年前の今日・・「祖母危篤、すぐに帰れ」
25年前の今日、3月20日は忘れられない一日です。
当時私は、新卒で入った化粧品メーカーの営業職、1年目でした。
初めて迎える年度末、お花見も近いし、もうすぐ後輩社員が入社してくる!
なんとなく浮足立ったようなそんな感覚でした。
当日、6時半ごろ家を出て、勤務先は青山一丁目にあり、自宅のある松戸から千代田線で大手町乗り換え、半蔵門線に乗り継いで朝8時には出社していました。
一年目なので、一番最初に出社し、全員のデスクを掃除、電話機などを拭いたり、、
お湯を沸かし、ポットに注ぐ&麦茶を作り、冷蔵庫へ。
リーダークラスの人数分しか置かれていないPC、多分4台くらいだったか、、すべて立ち上げ、前日までの売り上げ額を確認、予算達成率などををホワイトボードへ記入、、などの作業をこなしていました。
※当時はPC一人一台ではなく、リーダークラスに一台、、PCなしで仕事をしていた時代です。懐かしいです。
ほかに同期は二人いましたが、二人とも男子で「なんとなく」女子の私がやる流れになっていました。因みに、私も含め、全員が「総合職」です。
※総合職って響きも懐かしいですね。女性は事務職がほとんどだったので、総合職とは言え、そういった雑務は「女性の仕事」として押し付けられていた時代でもあります。今ではあり得ませんが。
そして、一息ついてから、8時45分からのブリーフィングが行われ、その司会担当も私でした。
毎月、20日は「棚卸」の日となっており、得意先へ訪問し、そこへ委託販売・出荷している商品全品目を実際に棚にあるものとシステム上の在庫数とあっているかのチェックをする、というイベント的な一日となります。
この日も、20日、年度内最後の棚卸の日となりました。
私は、3件の得意先を訪問することになっており、その得意先は3件とも、実は自宅に近いところにあり、出勤してきたきた経路をまた戻る形で得意先へ向かうことになります。
出社時は、時間を短縮するために松戸(千代田線)→大手町(半蔵門戦)→青山1丁目の最短ルートでしたが、朝早いので、表参道から座われて、寝ていきたい、という思惑もあり、青山1丁目(銀座線)→表参道(千代田線)→松戸で移動をしました。
千代田線で霞が関を通過した時、駅のホームが真っ暗、、あれ?止まらないで通過した??と思いながらも眠気が勝ってうつらうつらとしながら、さらに目的地へ向かい、千代田線に乗り続けていました。
何も知らずに、呑気に舟をこぎながら、、うつらうつら、、
担当先へ到着、いつものように、商品名、商品コードを読みあげ、個数を数える、という実に地道な、マニュアルな作業を×3を昼食、休憩をはさみながら行い、時刻は17時頃でした。
そこで、支店へ「公衆電話」から電話をかけ、「3件終わりました、何か連絡入っていますか?」と、いつものお決まりのフレーズを言いました。
※当時は携帯電話などがなく(あったと思いますが今のように誰もが持てるものではなく、営業でも持たされていなかった時代です)、支店へ戻る前に電話連絡を入れるルールでした。各人のデスクの上に「電話連絡帳」というものが置いてあり、例えば私宛に連絡があれば、電話を受けた人が、そこに受電の日時、要件などを記入する、という仕組みで、ここに何かメッセージが書かれていますか?という確認をするのが恒例でした。
電話を受けたのはもう覚えていませんが、先輩社員の一人で「あー、キララ、お疲れ。
今、みんな出ていて自分だけなんだよね。ちょっと今キララのデスクが見えないところで電話取っちゃってるんだけど、多分、連絡帳開いていないから、何もないよ。」という感じの返答でした。
本心ではこのまま家に帰りたいなぁ、、、直帰していいよって言ってくれないかなぁ、、なんて期待をしていましたが、上司は誰もいないようで、渋々、また青山一丁目まで戻ることにしたのでした。
支店についてみると、支店長がテレビをつけており、食い入るように周りの社員たちも見ていました。
そうです、この日は地下鉄サリン事件のあった日で、さかんにニュースでこの事件の状況を伝えていたのでした。
※以下、Wikipediaより
1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガス・サリンが散布され、乗客や駅員ら14人[注 1]が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
メールも、ネットもなかった時代、何も知らずに、その事件現場周辺を移動しており、仕事をこなしていたのでした。
当日、事件発生時、状況がわからなったが、時間を追うごとに詳細が見えてきて、夕方には大騒動になっていたということでした。
オジサンたち(すみません、1年目の社員からみた様子です。。)がテレビの前で腕組んで茫然とした感じでした。
私はその様子を自分のデスクから眺めていて、ふと、電話連絡帳を開いてみたら、
「お父様より、『祖母危篤、すぐに帰れ』受電:竹野」と書かれていたのでした。
・・・・・え??
どういうこと?
メモがあるのに何で連絡帳閉じられてたんだろう?
出先から電話した時に何もないだろうって、、なんでそんなこと言ったの?
誰が、連絡帳閉じたの??
この電話を受けた「竹野」氏、は私の同期でした。
思わず、本人を探し、「竹ちゃん、これ何?本当の伝言?いたずら?」と問いかけたのでした。
「え?なんでキララここにいるの?支店に電話しなかったの?」と竹野くん。
私は結構イライラ&パニック気味だったので「はぁ?したけど、連絡帳が閉じてあるから伝言ないって言われて支店に戻てってきたんだけど、どういうことなの?」と切れ気味に言ってしまったことを覚えています。
※竹ちゃん、あの時はゴメンね。。(今でも年賀状のやり取りはあります)
そこからの記憶はあまりありません。
青山一丁目から自宅へ戻る道中もあまり覚えていないのですが、帰宅ラッシュの時間帯でもあり、今思えば、とてつもない事件が起きて、電車の本数も間引かれていたのでしょう、満員で、動揺もしていたので息がうまくできない、、という記憶です。
病院へ着いたら両親、叔母、真ん中の妹(当時大学生、春休みなので家にいた)がいました。おばあちゃんはまだこの世にいてくれて、私は昏睡状態のおばあちゃんをただただ見つめているたけでした。
その後、一番下の妹が到着、みなでおばあちゃんを見守っていました。
一番下の妹は当時高校生でしたが、この日は午前中部活へ出た後、表参道の有名美容院へ行って、春休みだからとパーマをかけていたそうです。
連絡する手段がなく、妹は普通に自宅へ戻ったら、テーブルの上にメモがあり、慌てて病院へかけつけたのでしいた。
※今だったらLINEで一発で連絡が取れるのに、、
おばあちゃんは昏睡状態のまま、夜も更けてきて、私たち三姉妹は一旦家に帰りなさい、と父に言われ、自宅へ戻りました。
その日は疲れていたのか、寝てしまい、朝起きたら、家に両親と叔母がいて、「おばあちゃん、息を引き取ったよ」と言われ、朝からワンワン泣きました。
おばあちゃんの最後の瞬間は一緒にいられなかったのが本当に残念で、25年たった今日もそのことが悔やまれます。
※これを書いていても涙、、父は、最期の様子は見せたくなかったようです。
祖父も12年後に亡くなりましたが、その時も最期は立ち会えず、未だ誰かの最期の瞬間に立ち会った経験はありません。
おばあちゃんは強い、会津の女性。
私を本当に可愛がってくれ、たっぷりと愛情を注いでくれました。
おばあちゃん、また会いたいよ。。。
手先が器用でたくさんセーターを編んでくれたよね。
センスが良くて、いつも友達に自慢してたのよ。
お庭に杏子の木を植えてくれたけど、結局実はならなかったね(笑)
叔母さん、おばあちゃんに笑い方がそっくりで、叔母さんと話すといつもおばあちゃんと話をしているみたいな気になるんだよ。
そうそう、見てくれているから知っていると思うけれど、私、お母さんになったんだよ。明後日、ベビー君つれて、会いに行くから楽しみに待っててね。
・・・・あれから、25年。。。
私もバッチリ年齢を重ねてます(;'∀')
今じゃあ一人一台携帯があり、PCがなくちゃ仕事にならない、、情報の信ぴょう性は見極めなくてはいけないけれど、すぐに情報にアクセスできる時代です。
もし、今もおばあちゃんが生きていたら何を思うのだろうか。